【私の今までの仕事歴】

【私の今までの仕事歴】

毎日茹だるような暑さの2023年7月最後の日。今まで生きてきて現在58歳。今日は少し手が空いたので今まで生きてきて携わった「仕事」を振り返り、整理してみたいと思います。

私のしごとといえば、まずDJ。17でその世界に触れ、18からDISCOでレコードを回し、32まで14〜15年間リアルな神戸のナイトシーンで生活してきました。実家が神戸の繁華街、三宮の東門筋で自己所有ビルを持っていたので、お金持ちに間違われる反面(ほんとは貧乏)、Street Kids的な一面も持っていました。
話は逸れますが、80年代のDISCOと言えば遊んでいる客層は高校生が主に目立って(お洒落で、綺麗で、輝いている世代)、女性の年齢は22あたりを過ぎた歳の人だと、当時の僕たちの間ではオ●ハンと言われていました。DISCOデビューはみんな早く、早々に卒業していくのが常でした。

そんな世界から建築・設計の世界に移ったのは1995年にあった「阪神・淡路大震災」を経験してから1年少し経ってからです。地震で自分たちの住む街が破壊され大変な時に、DJで荒廃した街で気狂い水を売り、助長するのがたまらなく嫌になったのです。

そこから建築設計を勉強し、CADを習い、物を作る仕事に就きました。気が付くと32歳でした。

元々私の父は大工だったので物作りは好きな方でした。

夜の生活から一転し、朝からスーツを着て電車に乗り神戸から大阪の中津の設計事務所に通う。仕事は機械設計で、主に携わったのは水処理の処理槽の設計。下水がない場所に設置する汚泥・し尿処理タンクです。

社会人としては遅いデビューでしたが、何でも知識として吸収できる歳でした。

そこを2年ほどで退職し、神戸に帰ってきて水道工事の会社に就職し、設計・事務・検査・上下水の道路工事の監督・水道局への工事申請を手掛けました。

その会社を12年間勤めた後、自分で神戸の指定業者の認可を受け、水道の申請業務をやっていたんですが脳出血を発症。個人でやっていた会社を廃業。

4年後の2016年に就労支援A型の事業所(作業所)に勤め、そこでは中古品をネットで販売する業務に就きました。

その事業所が2020年に半分潰れたような形になったので退職。その後、運よくWEB系の仕事が出来る今の会社に就くことが出来ました。

考えたら自分は転職の多い事…情けない。

これを書こうと思ってから、ほぼ毎日通った懐かしい水道局の建物の画像を見ようとググったら、神戸の5ヶ所あった水道局センターが3ヶ所に減っていることを知りました。住吉川の側にあった神戸市水道局東部センターと、多聞にあった神戸市水道局垂水センターが神戸市水道局中部センターと神戸市水道局西部センターに統合されています。

そしてもっと驚いたのが、 建物が竣工した時に受ける水道の検査が、2年ほど前からリモートになっていたことです。

今まで水道局の検査員と、水道業者の資格者の立ち会いで行う水道検査が、なんと 水道局の職員の立ち会いはなく、スマホなどで検査を行うリモートなことです。

2年前からこの形式に変わったようで、ちょうどコロナが猛威を振るっていた時。水道や、建築の検査が人と触れ合わないと出来ないからこうなったと思うのですが、あの古めかしい体質の水道局が水道の検査にリモートを採用する…。

こんなことに驚いているのは自分だけかもしれませんが、前の業務で一番厄介だったのが検査なんですよ。

水道局、市の職員は偉そうに業者に対して高圧的にものを言う。今だったらパワハラですよ笑。

その傾向は昔になればなるほど酷くなり「こんなん嫌がらせちゃうか?」と思ったこともあります。

水道の工事の申請もネットで出来るようになったらしく、以前のように審査係と私のような担当者が対面で行うものではなく、何と言うか今的に出来るようになったらしいです。

このようなことを知って、第三者的に喜ばしいことですが、仕事に人間味が無い、というか、「おう、元気か?」みたいに相手から声をかけられるのもリアルで喜ばしいもので、時々する職務中の世間話も楽しかったなぁ、と思う次第であります。

何でもリモートの時代。高齢化、少子化、人口減少、AI。これからどうなるんでしょうか。

時代は変わったなぁ